【体験談】養護学校の教員から介護福祉士へ転職した男性

養護学校の教員から介護福祉士に転職

介護や福祉の現場は、思っている以上に大変だということを耳にしたりします。

人手不足だの重労働だの聞きますよね。

今回紹介する転職体験談は、人の役に立ちたい!という思いで、30代後半で介護福祉士に転職された男性、ナオヤさんー仮名ーの転職体験談です。

 

ナオヤさんのプロフィールを簡単に紹介すると…

ナオヤさんのプロフィール

ナオヤさんはもともと養護学校(現在の特別支援学校)で職員として働かれ、その後教員の資格を取得し、同じ養護学校で公務員の教師として勤務されていました。

養護学校で保護者の負担を目の当たりにし、転職して世の中の役に立てる福祉の仕事がしたいと感じ始めます。

しかし、ナオヤさんに度重なる不幸が起こり、教員からの離職を余儀なくされます。

その後ナオヤさんは介護福祉士の資格を取得し、介護施設で働き始めるのですが…

 

読んでいただけると分かるのですが、仕事=お金と考えておられる方もいると思います。自分もどちらかと言えばその内の一人です。

でも、仕事=人や社会の役に立つ事だと考えておられる方もいるのです。ナオヤさんはまさにその中の一人です。

様々な出来事が起こり、介護福祉士に転職されたのですが、ナオヤさんにとって転職はどういった事だったのでしょうか?

 

それでは、養護学校の教員から介護福祉士に転職されたナオヤさんの転職体験談を紹介します。

 

 

私は地方の県で教職員を13年間しました。

私が勤めていた学校というのは養護学校です。

4年間を養護学校の寄宿舎職員として働き、あと9年間は教諭として働きました。

現在は養護学校と呼ばず特別支援学校と呼んでいると思いますが、ここでは当時のままの呼称で書かせていただこうと思います。

 

私が転職を考えたきっかけにはいろいろなものがあります。

転職を考えていた当時、性格の不一致から私は離婚を経験した時期でもありました。

三人の子供は妻が引き取ったのですが、離婚後も元妻と子供たちとは交流はありました。

偶然でしょうが、ちょうどその時期に父を自己免疫疾患で亡くし、間もないうちに母を間質性肺炎で亡くしました。

さらに、三番目の娘が悪性の脳腫瘍を発症したのです。

 

私のそれまでの人生の中でも一番不幸に見舞われた頃で、私は精神的な不調を来しました。

両親の不幸、子供の病気、私の精神的な不調により養護学校の教職員の仕事から離職せざるをえなくなりました。

これが私が転職をすることになったきっかけです。

 

職を余儀なくされた生活の中で、身分が余りにも保障されすぎている公務員でなく、民間で働きたい。

それも世の中に役に立っている実感を得たい。

利用者の方と苦しい人生を分かち合って過ごしたい。

だから、「次にやるなら老人介護」と思うようになりました。

 

転職前は地方で養護学校の教職員として13年

転職前は特別支援学校の職員

先に紹介させていただいたように、私は地方の県立養護学校寄宿舎で働いていました。

養護学校に通学が困難な子供たちのために寄宿舎が併設されている学校があります。

そこで生活している障害をもったこどもたちの入浴や食事、排泄などの世話をするのが仕事です。

 

夜勤もある仕事ですが、公務員であるため、給与や福利厚生面はしっかりしていました。

 

寄宿舎が併設されていることもあり、夜間も子供たちと一緒に過ごし看病などをする必要があるため、いわゆる一般的な学校の教師よりも子供達と過ごす時間も長くやりがいのある仕事でした。

 

養護学校で職員になり4年が経った頃、長男が生まれました。

子供ができたことで「より安定した仕事のほうが良い」と当時は思い、教員採用試験を受けて職種を寄宿舎の職員から教諭へと変えました。

この養護学校での教諭の仕事内容は、私が勤務していた学校の子供達には障害があるというだけで普通の教諭の仕事と同じです。

 

私は小学部でしたので、小学校全科の受け持ち授業をしました。

養護学校には当時は「自立活動」「日常生活の指導」「生活単元学習」などの独特な授業もありました。

初めは養護学校の寄宿舎の職員として働き、その後教員採用試験を受けて養護学校の教員となりました。

これが転職前に13年間私がしていた仕事です。

 

養護学校の教師の仕事への不満ではなく、生徒達の保護者が…

障がいを持つ子供の両親の大変さを

話は変わり、両親が亡くなり私が精神的な不調になり離職を余儀なくされたのですが、在職中にも転職を考えるきっかけになったことがあります。

それが「生徒達の保護者にかかる負担の重さ」です。

 

養護学校の児童達は高等部になっても常時見守りが必要な子供たちが多く在籍しています。

高等部の子供たちは学校に9時ころにバスでやって来るのですが、15時には帰っていきます。

学校が担当するのはわずか6時間です。

 

一日は24時間ありますから、子供達が高等部まで成長したと言えど、常時見守る必要を実に18時間保護者が負うことになります。

もちろん民間の施設を利用すればショートステイや学童保育を受けることもできますが、学校が生徒を見るのは9時からの6時間しかないのです。

 

公務員ということもあり、教職員には長期休暇もあります。その休暇の間は、保護者がすべてを負う現状に誇りを持てませんでした。

任意の団体に所属してプライベートな時間をボランティアなどで子供たちと関りを持つこともしましたが、その後働いた介護の現場の負荷とは比べようもないくらい軽いものでした。

仕事として割り切るのであれば、保護者の負担まで心配する必要は無いかもしれません。

 

しかし、小学部から高等部まで生徒達と関わり続けていると、保護者の大変さがひしひしと伝わってきたのです。

 

その後、離婚と両親の他界、娘の病気などが重なり、私は養護学校を退職します。

退職をして次第に精神的な不調が回復に向かっていた時に考えていたのは、

次に仕事をするなら身分が余りにも保障されすぎている公務員でなく、民間で働きたい。

それも世の中に役に立っている実感を得たい。

利用者の方と苦しい人生を分かち合って過ごしたい。

だから、「次にやるなら老人介護を!」と思うようになりました。

 

老人介護へ進むため専門学校に入り、介護福祉士の資格を

介護福祉士になるため専門学校へ

養護学校を辞めて老人介護の仕事を目指したときはすでに38歳。

まずは基礎的な知識技術を身に付け、介護福祉士の資格を得ようと専門学校の介護福祉科に入学しました。

当時は専門学校の昼間部に2年間通えば無試験で介護福祉士の資格が得られたからです。

2年間を娘のような年齢の子供たちとクラスメートして過ごし無事卒業して資格を得ました。

 

年齢は年齢ですが、一応新卒ということですので5社面接を受けて採用して頂きました。

逆に言えば4社落ちました。専門学校での成績はもちろん断然トップで、前職は養護学校の教員をしていましたが、成績や経歴は転職するにあたり特にプラスに作用しませんでした。

 

というのも、介護職の就職面接には独特な視点があります。

それは「どれくらい離職せずに働くだろうか?」という視点です。

当たり前のように感じるでしょうが、この視点より「この人材はどれくらい優秀か?」が大事な会社もあると思います。

この場合、リスクとして「ヘッドハンティング」や「独立」ということが起きます。

しかし、優秀で会社に忠実な長く働いてくれる社員を得ることができれば発展するとの考え方もあり得るわけです。

介護職の場合は、長く働いてくれそうな人を採用するという視点があるのです。

 

介護職は本当に大変です。人間関係、体力、給与、健康全てにわたって強いストレスにさらされ続けます。

ですから、ある程度継続して働くであろうと見込める人材を採用することが大事なのです。

専門学校を卒業し、介護福祉士の資格も取得し、自ら希望していた老人介護の職へ転職することができたのです。

 

やはり介護の現場は過酷だった。でも…!

老人介護にもいろんな種類があるのですが、私が働いた会社は介護業界は大手のところでしたので多くのの施設を持っていました。

特別養護老人ホーム、介護老人保健施設、小規模多機能事業所、デイサービス、デイケア、有料老人ホーム等々です。

転職してからの4年間でそれらの介護施設を一通り経験させて頂きました。

 

デイサービスに夜勤はありませんが、拘束時間はとても長いものでした。

毎日夜の10時くらいまで次の日の準備をしました。

また、一人の介護福祉士が受け持つ人数が多く、休む暇もないほど忙しいものでした。

 

そして、給与は低く夜勤が無いと手取りで15万円程度でした。

デイサービス以外は夜勤があるため手当てがつくため給与は多少上がりますが、夜勤の際は勤務開始時間よりもかなり前に仕事場に入り、夜勤明けには行事の準備をする手伝いなどもあり、かなりの超過勤務でした。

ハードな日は16時くらいに勤務に入り、翌日の正午頃まで勤務したこともあるほどでした。

会社をかばう訳ではなく、会社から超過勤務を強制されていたわけではありません。

 

それこそ今で言うなら忖度(そんたく)みたいなもので、

「職場の先輩たちがみんなそうしているから、自分たちもそうすべきだろう…」

と状況的に超過して勤務をせざるをえなかったという感じです。

 

そもそも私が老人介護に転職をしたのは、

「公務員の頃のように保証された仕事ではなく、ある程度の負荷を感じることでやりがいを感じたい」

というのが動機でしたので、なんとか4年間は施設で介護福祉士を続けることができました。

 

介護の現場は過酷です。

シフト勤務ですので怠ける人がいる日は大変なストレスです。

また、排泄介助や摘便で汚物を間近に見てニオイにさらされたり、場合によっては顔や体に汚物が付着することも辛いです。

トランスファー(移乗介助)でも膨大な人数をこなしていたため、何度ぎっくり腰になったことでしょう。夜勤入りですぐにぎっくり腰になり、痛み止めを飲んでなんとか一晩を乗り切ったこともあります。

養護学校での教員をしていた頃とは違う過酷さがありました。

 

しかし、介護施設に入所されている戦争体験など過酷な時代を生き抜いて来られた郷土の先輩の話を聞けたことは一生の宝です。

そうした施設に入所されている人の苦労話を聞いていたことも「こんなことでツラいなんて言っててはダメだ。」と自分を奮いたたせる刺激になりました。

 

さすがに歳が40代後半に近づいてきて体に限界がきました。

介護職を辞めたあと、私は介護施設で出会った女性と再婚しました。

現在は零細企業ですが、福祉事業所を妻と二人で経営しています。

 

養護学校に介護施設、それに現在の妻との福祉事業所。

私にとっては福祉の仕事が性格にあっているのだと思います。仕事の過酷さや厳しさは身をもって知っているはずなのに、今でも福祉関係の仕事を続けている訳ですから。

もしもう一度転職することがあったとしても、おそらく福祉関係の仕事を選ぶと思います。

それだけ私にとって福祉の仕事は自分に誇れる仕事なのです。

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